コンパス 〜文房具を持つ女1〜

  1. コラム

コンパス 〜文房具を持つ女1〜

藤雅成

 

 
「どうにかしたい。あなたがそう思った時、きっとその人は現れる。あなたが進むべき方向を、正確に示してくれる人が」
あの時、あの若い女はそう言った。そして、バッグからケースに入ったコンパスを取りだすと、おもむろに地面に円を描き、こう続けた。
「コンパスは円を描いて、縁を結ぶ文房具なんです。さあ、この円の中に足を踏み入れてください」
初老の男は、正確にあの日のことを思い出していた。
あの若い女性ーーそうだ、コンパスさんと呼ぼうーーは、三年前、突然私の前に現れた。定年退職して半年後くらいのことだった。二日酔いの頭痛から少しでも解放されたくて、近所の公園の木陰で風にあたっている時だった。お昼を過ぎてもまだ酒が体中に残っていて、依然として血の巡りは悪かったが、自分の置かれた状況がとてつもなく悪いことだけは認識し始めていた。その前夜、私は妻と喧嘩をした。原因は些細なことだった。始まりは、「食事を準備してくれるのはいいが、キッチンの使い方をもう少し考えて欲しい」と言われたことだった。
「手伝っているのに、どうしてそんな風に言うんだい?」
私が訊ねると、妻は怪訝な顔をして言った。
「手伝う、という感覚なら結構ですよ」
「どういう意味なんだい?手伝う以外に、何か適切な表現が?」
そんなことから始まった口喧嘩は、いつしか全く別方向に向かって行った。妻は、私がスマートフォンを買って浮かれているのも気に喰わなかったのだろう。
「個人情報やらを盗まれて、痛い目を見ますよ」
それで私はカッとなった。
「君みたいに何事にも挑戦せず、のほほんと死んで行くのはほとほとごめんなんだよ」
正直、言ってはいけないことを口走った。そう思った。私が存分に仕事に打ち込めたのは、妻の支えがあったからだ。妻にも夢があって、結婚前は彼女も仕事をしていた。しかしそれを全て諦めて、いわば社会との付き合い、変化との関わりを遮断して、毎日毎日家事を繰り返してくれた。その妻に、あれは明らかに暴言だった。が、私はもう止まらなかった。お酒を次々とあおり、思ったこともないようなことを、思いつきの言葉で彼女を刺し続けた。そして、おそらく夜8時前のことだ。妻は家を出て行った。何年ぶり、いや、何十年ぶりかに妻の涙を見た。
「やれやれ」
初老の男は三年前と同じ場所で、同じようにため息をついた。三年前のあの時は、コンパスさんが描いた円に足を入れて、「必ず良いご縁がありますよ」とコンパスさんに言われたことに喜んで、彼女が去った直後、さっそく電話が鳴ったものだった。それは見たことない番号だったが、私は構うことなく電話に出た。受話器越しからは、ハツラツとした声でありながらも、誠に申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「もしもし。オレオレ。父さん、ホント申し訳ないんだけど」
その電話は、要約するとこんな内容だった。
七年ぶりに話した27歳の息子は、いまフランスにいるらしい。一人前の菓子職人を目指して孤軍奮闘しているとのことだが、悪いことに交通事故を起こしてしまった。相手方にケガはないのだが、高級車だったため修理費が払えず困っている。さらに運の悪いことに、相手方が極道のような人間で、いま監禁されている。本当に申し訳ないが、フランスまでお金を届けて欲しい。それもすぐに。というのも、あと二日後に、人生をかけようと思っているスイーツのコンテストが控えているからで。初老の男は迷わなかった。一番早い便でそちらに向かうと、その場で息子に約束した。そして、電話を切るとすぐさまスマートフォンで旅行代理店のサイトにアクセスした。色々調べて行くと、運のいいことに本日成田発のフランス行きはもう一本残っていた。男はスマホに色々と必要事項を入力すると、30分で予約を完了させた。
スマホ。これは何て便利な道具なんだ。
初老の男は心底そう思った。が、ふと、成田までの移動をどうするかを考えていなかったことに気づき困り果てた。タクシーで成田空港へ行くには、いくらかかるかわからないから少し怖い。かといって、電車では絶対間に合わない。東京行きの電車は、接続を考えると三時間に一本だ。では、マイカー?いや、無理だ。二日酔いはまるで改善されていないし、何より眠い。間違いなく事故を起こす。そんな結論が見えそうもない問題を解決しようと公園から歩いて帰ってくると、ちょうど自分と同じくらいの年齢の男が、我が家のポストに何かを入れようとしていた。
「何ですか、それ」
初老の男が訊ねると、ポストに何かを入れようとしていた男は振り向いて答えた。
「チラシですよ。わたしは、海外旅行者をターゲットにした乗り合いタクシーの運転手でしてね。今からご依頼いただいたお客様のお宅へ順番にお迎えへ回るのですが、ちょっと早かったんで自社のチラシをポスティングしているんです」
それを聞いて、初老の男はコンパスさんの話を思い出した。
「どうにかしたい。あなたがそう思った時、きっとその人は現れる」
初老の男は思わず声を張り上げた。あの円に足を踏み入れたことで、救世主と早速ご縁が結ばれた!それが嬉しくて仕方なかった。
「私を乗せてはもらえませんか?今すぐ、成田空港に行きたいのです」
運転手は少し戸惑ったが、すぐさま小さな笑みを浮かべた。
「いいですよ。ただ、あまり時間はないので、すぐに準備にとりかかっていただけますか」
初老の男は「もちろん」とだけ返すと、忘れ物をとりに戻ってきた中学生さながらに、靴を脱ぎ散らかして家に上がった。
 
運命のタクシードライバーのおかげで、初老の男は飛行機に間に合った。そして予定通りフランスの空港に到着すると、残念に思える程”らしい”人物達に出迎えられた。初老の男は彼らにお金を渡した。あらかじめ息子から聞いていた金額だ。それより多くもなく少なくもない、ちょうどの日本円紙幣の束。
初老の男が息子と再会できたのは、それから30分後だった。息子はどこにも外傷はなく、元気だった。初老の男はこの時初めて、心から安堵した。
 
その日の夜は、親子で話が弾んだ。なぜ菓子職人を目指すことになったのか。日本に帰ってくる予定はあるのか。彼女はいるのか。結婚はいつなのか。孫を見せてくれる気はあるのか。そして、話がスマートフォンに移ると、初老の男は嬉しそうに言った。
「本当にスマホは便利だよ。あれがなかったら、こんなにも早くフランスに来れなかった」
「そうなんだね。ところで、どういうのを使っているの?見せてよ」
息子のその言葉を待っていた初老の男は、喜んでポケットに手を突っ込んだ……が、見当たらない。ん?どうしてポケットに入っていない?
そこで、初老の男は記憶を遡った。そうか。そう言えば、乗り合いタクシーでの移動中に息子から電話があって、落ち合う場所などを打ち合わせた。それからスマホを触った記憶がない。つまり、乗合タクシーに忘れてきたのだ。それでも、初老の男は慌てなかった。運命のドライバーのことだ。きっと大切に保管してくれている。初老の男はスマホのことなど忘れて、息子がスイーツコンテストで準優勝を飾る活躍を見届けて、二日ほど観光を楽しんで帰国した。
 
日本に着いて、電車で我が家に帰ると、初老の男はマイカーが駐車場にないことに気が付いた。
「妻が帰ってきているんだ」
車がないのだから出かけているわけで、妻が家の中にいるはずもないのに、初老の男は興奮気味に玄関を開けた。そして、「ただいま!」と大声で言いかけたものの、言葉は途中で途切れてしまったーー家の中が、まるで嵐が通り過ぎたかのようにぐちゃぐちゃだった。
「……何が起きたんだ」
初老の男は靴のまま恐る恐る家に入った。どの部屋も荒れ放題だ。ドアというドア、引き出しという引き出しが開けられたままになっている。喧嘩の発端となったキッチン。机に上に一枚の紙きれ。そこには妻の字でこうあった。
「ここまでお暴れになって、タンスの中の五百万も持ち出して、いったい何をお考えなんですか」
そこで初めて男は気づいた。これは空き巣の仕業なのだと。
慌ててクレジット会社へ電話をしてカードの利用状況を確認すると、やはり限度額まで使われている。銀行へ電話をしてみても、やはり返答は同じだった。すっかり現金は引き出されていた。不意に怖くなって、クレジットカードのキャッシング枠についても確認してみる。すると、こちらもやはりやられていた。しかも、一ヶ月後からは目玉の飛び出る利子を払わなければならないらしい。
嘘だろ。という言葉すら出なかった。とにかく落ち着こうと、乗り合いタクシーの会社に電話をかけた。こんな時、スマホで調べれば何かしら打開策が見つかるだろう。まずはスマホを返してもらおう。しかし、スマホは見つからなかった。そもそも、初老の男を成田まで運んでくれたドライバーも見つからなかった。
「彼、突然音信不通になったんです」その会社の担当者は言った。「私たちも必死で探しているんですよ。何せ、会社の金が盗まれましてね」
初老の男は三年前と同じ場所で、三年前のことを正確に思い出していた。
「どうにかしたい。あなたがそう思った時、きっとその人は現れる。あなたが進むべき方向を、正確に示してくれる人が」
あのコンパス女はそう言った。確かにそう言い放った。しかしどうだ。実際は全く逆だった。確かに、スマホに個人情報のすべてを記憶させたのは私のミスだ。妻の言葉を無視したことも良くなかった。それでも、あのコンパス女は許せない。良いご縁どころか、最悪の出会いをもたらした。あの円に足を踏み入れたことで、地獄に足を踏み入れた。結局、あの後すぐに家を売り、そのお金を訳の分からない返済にあてている。さらに、スマホがないから妻の電話番号もわからず、あれっきり一度も連絡すらとれていない。そう。初老の男は文字通り、何もかもを失った。
「本当に、これからの私はどうなるんだ。もう、こんな人生は自ら閉じるべきなのか」
初老の男がそう思い悩んでいるときだった。三年前、文房具のコンパスを持つ女と全く同様に、一人の青年が爽やかに話しかけてきた。その青年はポケットから小さなコンパスーー文房具ではなく、方位磁石のコンパスーーを取り出すと、言った。
「このコンパスは、北を指すコンパスではありません。手に持った人の、幸せな方角を指すコンパスなんです」

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